活動内容
男子・女子・一週間の活動例
あくまで例であり、練習や試合の開始時間などはおおよそのものです。毎週このような予定で固定的に活動をしているわけではないことをご了承ください。男女は別に練習を行います。更に詳しい情報が必要な方は、お問い合わせください。
- *1試合の会場は毎週異なります。主に本道場や他大学の弓道場、または大きな試合はアリーナなどでも行われます。
- *2土曜日は9:00~ もしくは 15:00~ の練習となります。
※変更することもあります - *3定期戦や練習試合、公式試合が行われます。
一年の流れ
行事 | 写真 | |
1月 | 新年射会
部員全員で1年の初めを祝います。普段の競技とは違い、様々な的に向かって弓を引きます。 |
送別射会・送別会 |
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2月 | 送別射会・送別会
卒部する4年生を盛大に祝います。日中は道場にて射会を行い、夜はリーガロイヤルホテルの一室を貸し切り、たくさんのOB/OGを招待して卒部生を盛大に送り出します。 |
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シーズンイン
送別会が終了し、代替わりの後に試合シーズンが始まります。 |
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3月 | 新人戦
今までリーグ戦に出場していない選手(=新人)によるトーナメント形式の試合です。 |
女子部記録会 |
4月 | 女子部記録会
各大学内で選ばれた強豪選手たちが集まり、1人40射引いて、その合計を競います。 |
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5月 | 早慶明遠的大会
早稲田、慶應義塾、明治大学による遠的の試合です。各校のOB/OGも参加するため、交流も深まります。 |
都学連百射会 |
都学連百射会
各校の代表選手が集結し、それぞれ100射を引いた際の的中の合計を競います。 |
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6月 | 全関東学生弓道選手権大会
東京都学生弓道連盟と関東学生弓道連盟に加盟している大学により競われる試合です。毎年、日本武道館のアリーナを2日間貸しきって行われます。早稲田大学は、大会を取り仕切っている東京都学生弓道連盟の委員長を隔年で務めています。 |
全関東学生弓道選手権大会 |
全国大学弓道選抜大会
昨年で優秀な成績を残した大学が招待される、全日本弓道連盟主催のトーナメント形式の大会です。全国から多くの競合校が集まります。 |
全国大学弓道選抜大会 |
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8月 | 全日本学生弓道選手権大会(インカレ)
日本中から約250校もの大学が競い合う大学弓道における最大規模の試合です。大会の開催場所は東京、名古屋、神戸、三都市の持ち回りとなっています。 |
全日本学生弓道選手権大会 |
関西三私大学定期戦
関西、関西学院、同志社大学との定期戦を行います。 |
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六大学コンパ
関東、関西の大学同士で交流を深めるため、関西3大学に、慶應義塾、明治大学を加えた6大学で行われるコンパです。 |
六大学コンパ |
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夏季強化合宿
秋のリーグ戦に向けて、男女別で長野県にて1週間ほどの合宿を行います。 |
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9~10月 | リーグ戦
5週間にわたって行われる、一年の総決算とも言える試合です。東京都学生弓道連盟加盟校はⅠ部からⅤ部に分類されます。リーグ戦では総当たり戦を行いその順位を決定致します。Ⅰ部リーグで優勝した大学は全日本学生弓道王座決定戦への出場権を獲得致します。 |
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11月 | 浦上同門会大会
日置流印西派を学ぶ人が全国から集まり、明治神宮で射会を行います。 |
東西学生弓道選抜対抗試合 |
全日本学生弓道王座決定戦
伊勢神宮弓道場で行われる日本一の大学を決める大会です。全国の学生弓道連盟から選出された代表校とインカレ優勝大学がトーナメント戦で競います。 |
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東西学生弓道選抜対抗試合
リーグ戦で高的中を記録し選抜された学生が東日本、西日本代表として戦います。 |
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12月 | 日置流大会
筑波大学主催の日置流を学ぶ人たちの試合です。 |
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納射会・納会
1年の集大成として様々な競技を行います。 |
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12~2月 | シーズンオフ
来シーズンに備えて鋭気を養います。 |
指導陣・部員名簿
役職 | 名前 |
男子部監督 | 行方 利春 |
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男子部コーチ | 東海枝 航平 |
女子部監督 | 石原 源一 |
女子部コーチ | 穐原 明美 |
会計・総務事務専任コーチ | 佐藤 輝行 |
IT事務専任コーチ | 平山 あすか |
学年 | 役職 | 名前 | 学部 | 出身校 |
4年生 | 主将 | 藤井 千裕 | スポーツ科学部 | 山口・宇部フロンティア大学付属香川高等学校 |
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主将 | 宮﨑 滉巳 | 社会科学部 | 埼玉・県立浦和高等学校 | |
副将 | 大石 鼓 | スポーツ科学部 | 福岡・明治学園高等学校 | |
副将 | 多田 匠吾 | 先進理工学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | |
副将 | 山﨑 琴葵 | 社会科学部 | 東京・早稲田実業学校高等部 | |
主務 | 竹宇治 雄介 | 政治経済学部 | 東京・早稲田実業学校高等部 | |
主務 | 古沢 紗希 | 文学部 | 東京・頌栄女子学院高等学校 | |
榎本 祐菜 | 基幹理工学部 | 東京・共立女子高等学校 | ||
木村 朱里 | 教育学部 | 茨城・県立日立第一高等学校 | ||
後藤 万結 | 人間科学部 | 福岡・明治学園高等学校 | ||
齊藤 優 | 文化構想学部 | 東京・都立戸山高等学校 | ||
学連委員 | 酒井 駿輔 | 文化構想学部 | 東京・海城高等学校 | |
枡田 晴仁 | 教育学部 | 愛知・県立明和高等学校 | ||
枡田 美咲 | 人間科学部 | 兵庫・親和女子高等学校 | ||
萬木 健人 | 創造理工学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | ||
渡邉 ゆり子 | 法学部 | 東京・鴎友学園女子高等学校 | ||
3年生 | ||||
監事 | 首藤 菜那 | 先進理工学部 | 東京・吉祥女子高等学校 | |
監事 | 山田 蓮 | 政治経済学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | |
副務 | 太田 雄野 | 文学部 | 東京・國學院高等学校 | |
副務 | 神山 勝冴 | 創造理工学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | |
副務 | 柴崎 麗奈 | 文化構想学部 | 千葉・市川高等学校 | |
副務 | 橋本 美優 | スポーツ科学部 | 東京・國學院高等学校 | |
家田 翔平 | 基幹理工学部 | 佐賀・早稲田佐賀高等学校 | ||
河野 誠也 | 人間科学部 | 埼玉・県立浦和高等学校 | ||
坂田 智佳子 | 政治経済学部 | 東京・国際基督教大学高等学校 | ||
佐藤 我音 | 先進理工学部 | 東京・早稲田実業学校高等部 | ||
李 政珉 | 政治経済学部 | 中国・コンコルディアインターナショナルスクール上海 | ||
渡邉 笙子 | 文学部 | 埼玉・栄北高等学校 | ||
2年生 | ||||
副務 | 椎名 絵梨 | 文学部 | 東京・國學院大學久我山高等学校 | |
市橋 健成 | 教育学部 | 佐賀・早稲田佐賀高等学校 | ||
岩坂 玲奈 | スポーツ科学部 | 熊本・熊本学園大学付属高等学校 | ||
大野田 光希 | 政治経済学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | ||
坂口 恵 | 人間科学部 | シンガポール・早稲田渋谷シンガポール校 | ||
重田 和泉 | 人間科学部 | シンガポール・早稲田渋谷シンガポール校 | ||
学連委員 | 塚原 凜太郎 | 政治経済学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | |
寺師 大輔 | スポーツ科学部 | 愛知・東海高等学校 | ||
古田 和子 | 人間科学部 | 東京・豊島岡女子学園高等学校 | ||
1年生 | ||||
浅井 啓真 | 法学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | ||
今村 愛梨 | 創造理工学部 | 佐賀・早稲田佐賀高等学校 | ||
因泥 拓哉 | 創造理工学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | ||
梅島 陸斗 | 文学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | ||
小川 奈那子 | 人間科学部 | 三重・県立伊勢高等学校 | ||
加藤 櫂 | 基幹理工学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | ||
河合 知幾 | 文化構想学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | ||
岸本 優美 | 基幹理工学部 | 埼玉・早稲田大学本庄高等学院 | ||
小井戸 槙 | 基幹理工学部 | 東京・吉祥女子高等学校 | ||
小林 栄舞 | 人間科学部 | 京都・京都女子高等学校 | ||
佐藤 蒼 | 教育学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | ||
芝田 麗加 | 教育学部 | 神奈川・湘南白百合学園高等学校 | ||
下田 明奈 | 社会科学部 | 千葉・県立佐倉高等学校 | ||
田中 怜熙 | 創造理工学部 | 東京・早稲田実業学校高等部 | ||
寺門 日向人 | 文化構想学部 | 茨城・県立水戸第一高等学校 | ||
橋本 萌花 | 文化構想学部 | 東京・早稲田実業学校高等部 | ||
原田 連久 | 文学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | ||
繁田 舟蔵 | 基幹理工学部 | 東京・早稲田大学高等学院 | ||
村松 真衣 | 文化構想学部 | 東京・頌栄女子学院高等学校 | ||
概要・年表
明治 | 15年10月 | 東京専門学校創立 |
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30年 3月 | 体育部創設(弓術の他6部創設)これをもって弓道部(当時弓術部)創立とする | |
34年 | 慶應義塾弓術部にとって初の対外試合を行う | |
35年10月 | 東京専門学校を早稲田大学と改称 | |
39年 | 弓道部OB会「稲弓会」創立 | |
45年 2月 | 対明治大学定期戦始まる | |
大正 | 13年 3月 | 都下学生弓道連盟が発足し、都下学生弓道争覇戦が始まる |
14年 6月 | 満州、朝鮮に遠征 | |
14年11月 | 第2回明治神宮国民体育大会優勝 | |
昭和 | 2年11月 | 昭和2年度都下学生弓道争覇戦優勝 |
3年11月 | 昭和3年度都下学生弓道争覇戦優勝 | |
4年10月 | 昭和4年度都下学生弓道争覇戦優勝 | |
4年11月 | 明治神宮国民体育大会優勝 | |
6年10月 | 第1回日本学生弓道連盟選手権大会優勝 | |
6年11月 | 昭和6年度都下学生弓道争覇戦優勝 | |
8年10月 | 昭和8年度都下学生弓道争覇戦優勝 | |
9年11月 | 昭和9年度都下学生弓道争覇戦優勝 | |
10年11月 | 第8回明治神宮国民体育大会優勝 | |
12年10月 | 第7回日本学生弓道連盟選手権大会優勝
昭和12年度都下学生弓道争覇戦優勝 |
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13年10月 | 第8回日本学生弓道連盟選手権大会優勝
昭和13年度都下学生弓道争覇戦優勝 |
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14年10月 | 第9回日本学生弓道連盟選手権大会優勝
昭和14年度都下学生弓道争覇戦優勝 |
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15年10月 | 第10回日本学生弓道連盟選手権大会優勝
昭和15年度都下学生弓道争覇戦優勝 |
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16年12月 | 太平洋戦争勃発 | |
17年10月 | 体育会解散
学徒錬成部創立 |
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20年 8月 | 太平洋戦争終了 | |
21年11月 | GHQの指令により学校弓道停止 | |
22年 4月 | 体育会復活 | |
26年 8月 | 学校弓道復活 | |
27年 4月 | 体育局設置 | |
28年 7月 | 全日本学生弓道連盟発足
第1回全日本学生弓道選手権大会優勝 |
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29年 9月 | 甘泉園に弓道場落成
村井杯制定(百射会) |
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29年11月 | 第2回全日本学生弓道王座決定戦優勝 | |
32年11月 | 第5回全日本学生弓道王座決定戦優勝 | |
33年11月 | 第6回全日本学生弓道王座決定戦優勝 | |
36年 7月 | 第9回全日本学生弓道選手権大会優勝 | |
37年 3月 | 九州、沖縄に遠征 | |
37年11月 | 第10回全日本学生弓道王座決定戦優勝 | |
38年 2月 | 道場を大隈庭園裏へ移転 | |
38年 8月 | 東北地方に遠征 | |
38年12月 | 第11回全日本学生弓道王座決定戦優勝 | |
40年 7月 | 第13回全日本学生弓道選手権大会 女子優勝 | |
40年 7月 | 九州遠征 | |
42年 7月 | 第15回全日本学生弓道選手権大会 女子優勝 | |
43年 7月 | 第16回全日本学生弓道選手権大会 女子優勝 | |
44年 7月 | 第17回全日本学生弓道選手権大会 女子優勝 | |
59年11月 | 第32回全日本学生弓道王座決定戦 優勝 | |
62年11月 | 第11回全日本学生弓道女子王座決定戦 優勝 | |
平成 | 5年12月 | 東伏見弓道場竣工披露、道場開き式挙行 |
9年 3月 | 弓道部創立百周年 | |
16年 8月 | 第52回全日本学生弓道選手権大会 男子優勝 | |
17年11月 | 第32回全日本学生弓道女子王座決定戦 優勝 | |
23年 6月 | 第41回全関東学生弓道選手権大会 女子優勝 | |
24年 6月 | 第42回全関東学生弓道選手権大会 女子優勝 | |
25年 10月 | 女子Ⅰ部リーグ優勝 |
日置流印西派について
源平争乱の後、鎌倉幕府の出現となり北条氏の天下を経て南北朝の乱とともに、室町時代を迎える。この間、弓矢は武士の代表的武器として重用され、射術も武士の表芸として益々精錬され来ったことも事実である。しかしながら、現代武術の流派の多くはこの室町時代に発生を見ている。多くの弓道史家が避けて通るこの時代の流派発生の原因を少なくとも弓術に就いて次のごとく見ることができる。
これまでの時代は、戦場において弓矢を扱う武士は多く鎧(よろい)、兜(かぶと)にて武装し弓を射ていた。兜をつけた場合に弦は眉庇(まびさし)と吹返(ふきかえし)の間に引き納め、右手は肩と同じ高さにあり、左手は狙いによってその位置が定まってしまう。言い換えれば誰が引いても、その形は一定である。そのため射法流派は発生の必然性がなかった。
然るに室町時代に入るや、都を中心とする一揆の多発は地侍等の統制下に多くの農民が戦闘に参加し、鎧兜に身を固めた政府側兵士と交戦する事となり、鎧、兜無しの農兵もまた弓と矢を主兵器とした。然して、この農兵はある統制の下に射術の訓練を受けたであろうと、当時の農民が地侍等の統制下に行動したことから想像できる。
これらの事実と符合するかのように、弓術関係の文献より、室町時代、神格化されて後世の弓術家より尊崇を受けた日置弾正正次(日置流の祖と仰がれ、小笠原流を除き殆どの流派が流祖であるとしている)が一揆多発の1430~1460年頃、都を中心にして諸国に弓術を広めたといわれている。兜の制約を受けない射法は自由である。自由であるだけに一定の法を必要とする。ここに流派発生の必然性を見るのである。この百年後、種子島鉄砲伝来まで射術は益々精妙を加えていったのである。史家はこの鉄砲伝来の時期をもって戦場における弓矢の武器としての生命は終わったとしているが、果たしてそうであろうか。軍費の関係からしても多数の銃を常備できず、しかも中距離以上、(30m以上)の戦闘において弓と矢の必然性は少しも衰えていないはずである。
弾正正次の直系とされる吉田流は、吉田上野介重賢、出雲守重政、同実重、同重綱と伝わり、重綱の摘女を妻とした高弟の葛巻源八郎重氏(くずまきげんぱちろう しげうじ)が、後に吉田姓を名乗り、吉田源八郎重氏と称し、後に一水軒印西(いっすいけんいんさい)と号した。この時、時代は既に慶長年代となり、歴史上の近世に入ろうとしていた。
戦乱は漸く治まったとはいえ世上なお不安を存し、豊臣家残党の動静必ずしも予断を許さぬ時、家康は源八郎印西をして、徳川家の師範を指名した。この事実は印西が当時海内無双の射手として、自他共に許し許されたことを証するものである。
徳川が天下を平定したが、なお武備に対し現実に何時必要とするか判らぬ時代として、当然諸武芸は隆盛を極め、非常な発達を遂げたのは独り弓術に限らなかったのは当然である。果たせるかな弓術は九流七派と称せられるごとく、出雲派、雪荷派、道雪派、印西派、大蔵派、左近ヱ門派、壽徳派、太心派、山科派、等の諸派を生み、それぞれ自派の特徴とする処を以て一派をなした。
印西派は徳川将軍の師として栄える一方、薩南の勇である島津家、中国地方(岡山)の大藩である池田家に直伝の射法を伝えた。しかし、現代まで連綿として純粋な射法を残すのは、薩摩系、岡山系の印西派のみとなり、その他の日置流諸派は残念ながら、生きた射形を見ることは困難となった。
恩師の浦上栄先生、御先考浦上直置(なおおき)先生・・・・・・というように遡っていくと、約三百五十年前十三代にして吉田源八郎重氏、一水軒印西先生まで、はっきりとその教えの伝わり方を尋ねることが出来る。ここで一言付け加えておくが、宗家は吉田源八郎重氏及びその義弟五兵定勝両先生の直系のみであって、他はすべて師家と称するのである。現在、師家は存するけれども宗家は残念乍ら維新の際断絶したように聞いている。
徳川期に於いては前述の日置諸流派の外に竹林派又は竹林流と称して尾紀二藩に大いに行なわれ、堂射を得意として大いに盛行したが、この流れが現在の本多流である。
又、吉宗将軍の時、古式の廃れるのを惜しみ騎射の法を起こし、これを小笠原家に預け、旗本の子弟に教示せしめ、今日に残るのが小笠原流であると言う。
尚この期に京都三十三間堂通し矢が、大藩の間で勢力誇示の手段として盛んに行なわれ竹林派が活躍した事は今も世人の知る処である。
~「日置流印西派 歩射教本」、「日置當流射術教本」稲垣源四郎著より抜粋~
早稲田大学弓道部に伝わる日置流印西派は、村井五郎大先輩(明治41年卒)のお声掛けにより浦上栄師範を大正6年にお迎えしたことに始まり、後に稲垣源四郎師範が受け継がれ、更にその下で学ばれた先輩方が監督として引き継いで来られ、今日に至っています。